ぽー

散歩をして、そろそろ折り返そうと思った時にはもう寒くて疲れていたので、帰る途中で喫茶店に入った。よく前を通り過ぎてはいたけれど、入るのは初めての喫茶店だった。ドアをそっと押し開けてそっと閉めたら、無音で入店できた。誰にも気づかれなかったのではないかと思うほど、店内の空気は微動だにしなかった。なんだかその空気に圧倒されて、わたしは一言も発せないまま、ドアに一番近い窓際の席に座った。

メニューは手元にないし、観葉植物の陰で店員の姿も見えない。しばらく無言で座った。西日が差して、向こうのテーブルにひとりで座っているおじさんの背中が照らされていた。美しいな、と5分くらいぽーっとした。これだけで少し回復してまた歩けそうな気がしたし、いつまでもこのまま座っていたい気もした。

ハッと我に返ってもまだ何も起こっておらず、本当に気づかれていないんだと悟った。立ち上がってカウンターのほうへ行くと、白髪の店主らしき人が新聞を読んでいた。おそるおそる声をかけて、ホットコーヒーを頼んで席に戻る。少しして、水とコーヒーと砂糖が運ばれてきた。店主は無言だった。わたしが小声で言った「ありがとうございます」と、死角になっているテーブル席にいるらしい2人組のお客さんがひそやかに話す声だけが聞こえた。

コーヒーを飲みながら、メールの返信の文面を考える。メールは昨日の昼に受け取ったものだ。返信はなるべく24時間以内にしようと心がけているが、考えが全然まとまらず、返せないまま夕方になってしまっていた。返事を送れたらこの店を出ようと決めて、なんとかそれっぽい文章を打つ。受け取り手を困らせる内容に違いないとは思ったが、早く手放したい一心で、最後の一文を「!」で終わらせた妙なメールを送った。空気の抜けきったボールを勢いだけで投げ返すみたいだった。

焦りから解放されてほっとして、席を立つ。メニューを見ずに頼んだコーヒーは350円で、小銭を持ち合わせていなかったわたしは、「大きいのしかないんですけど大丈夫ですか?」とおそるおそる1万円札を差し出した。寡黙な店主はやはり無言で頷いたあと、1、2、3、4…とお札を数えて応じてくれた。