努力ができることを長所にしない

橋本愛さんは時々、Instagramのストーリーで質問を募集しては丁寧に回答する。彼女の考え方や言葉選びが好きで、いいなぁと思いながらいつも見ている。多くの人から寄せられる質問のなかから特に重なりの多い質問を選んで取り上げてくれているようなので、自分で質問を送ったことがなくても、共通する悩みや質問を目にして勝手に勇気づけられることも多い。

今日は、努力に関する質問への回答にグッときた。質問は「努力したくても努力できない時ってありますか?また、そういった時はどうしていますか?」というもの。24時間で消える前提で投稿している言葉なので引用は控えるけれど、彼女の回答が最近わたしが考えていることと近かったので、そうだよね、と嬉しくなった。

 

わたしは、自分はこつこつと努力を積み重ねることが得意だと思ってきた。楽器や語学学習が好きで、上手く演奏できたり会話が聞き取れたりすると嬉しいから、もっと上達したくて日々努力をしてきた。でも、それを周りの大人たちが「ちゃんと練習できて、努力できて偉いね」と褒めるものだから、いつからか、努力できることが自分のすごいところ、誇るべきところだと思うようになっていた。長所を書かなければならない場面では、だいたい「こつこつ努力ができるところ」と書いた。

わたしは努力が得意だから、毎日練習できるし、毎日単語を覚えられる。努力が得意だから、いつだってそうしなければならない。好きなことのためにただやっていたはずのことが、「努力」という頑張りや緊張感を含む言葉で表されて以降、わたしは「努力をする努力」をしていた。ほとんど「努力が得意なわたし」を維持するための努力だった。

そんな意識でやっていた「努力」には、当然のことながら、限界がきた。でも、然るべき限界がきたおかげで、今までの自分がやってきた歪な努力に気づくことができたのはよかったと思う。

自分の努力を誉められて、それを真に受けて浮かれてしまったのは、世の中で努力が美化されすぎているからだと思う。たしかに努力は大切で、努力することは素晴らしいけれども、努力なんて、自分にとって必要ですべきと判断したからやるだけのことだ。めんどくさいし、しんどいし、つらいけど、自分が自分に必要だと思ったから行動を起こしただけのこと。それを他人が過度に褒めたてたり、ましてや自ら「長所です」とアピールするなんて、見当違いも甚だしくて恥ずかしくなる。

自分ができる時にできる範囲でやるべきことをやるだけなのだ。

 

永井均『子どものための哲学対話』では、「いやなことをどうしてもしなくちゃいけないとき、どうしたらいい?」という問いに対して、つぎのような応答がなされている。

まず第一に、そのことが正当なこと、すべきことであることを自分に言い聞かせる。それが終わったら、第二に、じゃあやろうかな、と思って、ちょっと待っているんだよ。力をぬいてね。そうすると、すーっとやれるときがくるんだ。そのときがくるのをただ待つんだよ。たいせつなことは、ふとやってみるってことだよ。「ふと」っていうのは「不図(ふと)」ってことで「意図なしに」っていう意味なんだよ。意図なしに、ふとやれる瞬間がくるのを待つんだ。なれてくると、人生全体をふと生きることができるようになってくるからね。そうなれば、しめたものさ。