哲学の先生の雑談

数年前に受けた哲学の授業で先生がしてくれた雑談に、印象的な話がある。当時、忘れないようにすぐに書き起こして、頭の中で何度も反芻させた。書き起こしたメモはいまでもとってあって、ときどき読み返す。ただ、そのたびにうっかり削除してしまわないか怖くなるので、ここにひっそりとアップさせてもらいたい。

 

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みなさんいろんな人がいて、一部の人は就職活動をしていたり、もうすぐ就職活動があるから自己分析をしようかなとか思っているかもしれません。私も昔は、私って何なんだろう、私って何に向いているんだろう、とか考えていました。私は30歳をちょっと超えたんですけど、30歳を超えると独特な感じがします。卒論であんなこと書いたなとか、学部生の頃にあんなレポートを書いたなとか、思い出します。
すると、考えてみればこの関心は学部生の頃からあったんだよな、 みたいなことがいくつもあって、私は意外と一貫してるんだな、と思ったりします。
思うんですが、私ぐらいの年より上の人はみんなそういう気持ちで若い人のことを考えていて、若い人たちに対して「君達は何がやりたいんだかわからないような顔をしているけれど、自分の心の中をよく覗き込んだら、自分はこれがやりたいんだ! ということがあるはずだから、それに向かって一貫してやればいいんだ」というようなことを言うと思います。
私ももう少し経ったらそういうことを言う人になってしまうかもしれません。 
が、私は年寄りの中で一番若いので言うのですが、それは間違いなんです。
私は学部生の頃、いろんなことに関心があった。で、そのうちの大部分は、もう飽きたわ、となって、いろんなことに関心があったうちのいくつかが今でもたまたま残ってるんです。
学部生の頃に興味を持ったけど飽きちゃったことというのは、今の私には思い出せない。そうすると、思い出せることは全部一貫しているんですよ。
だから、私は昔から関心が一貫しているなあ、というのは錯覚だと思うんですよね。
学部生の頃はどれが長続きするもので、どれが長続きするものか、わからなかったと思う。
まあ、一貫した関心を持っている人も皆さんの中にはいると思いますけど、多くの人はそうではないと思う。
だから、年上の人に「君のやりたいことは何だ」と言われたら、あんまり真に受けない方がいいと思うんです。それで苦しむ人がいると思うから。

 

それでね、ハイデガーライプニッツが捉えていた真理っていう感じがするんですけど、心の中に私の固有のものっていうのが何かあるんじゃないかと思って、目を閉じて見てみるのね。……ないんですよ!
ないのが当たり前だっていうのをハイデガーライプニッツはちゃんとわかっていた気がしますね。
私の一番やりたいことって何なのかな、私の本心って何なのかなと思ったときに、目を閉じて考えたら、わからないと思う。真面目に考えてない人は、こういう気持ちだとか思うかもしれないけど、真面目に考えたら、わかんないな、って思うと思うんですよ。
じゃあ何かわかるか、私の心の内側には何があるかって言うと、 世界の表象しかない。世界ってこうだよな、ってことしかなくて、世界と別に私の意志みたいなものがあったりするわけではない。意識ってそういう構造をしてないと思います。

 

だから、翻って、自己分析をしている人たちに対して言いたいのは、「あなたのやりたいことが何なのか」ではなく、「世界を見渡して、あなたから見てこの世界に何が足りないのか」ってことを考えたら、それだったらわかるんじゃないかなと思うんです。そういうふうに問いを変えたらだいぶ良くなると思う。
なぜかと言うと、「私のやりたいことは何か」という問いは、正解のある問いなんですよ。10年後くらいに「あっ、これは私が本当にやりたいことじゃなかった」と思うかもしれないでしょ。
でも、「今あなたがいる場所から見て世界に何が足りてないように見えますか」っていうのは、それはあなたの限られた視点からして最善のことをやるっていうことだから、ある意味で、どれを選んでも正解っていうタイプの問いなんです。
だから、そういうのがなんかいいんじゃないかなと思ったりしております。

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この先、自分も世界もどんどん変化して、そのたびにいろいろな問いが生まれるだろう。でも、自分が変わっても、世界がどうなろうと、「いま自分が世界のどのような場所に立っているのか」という問いだけは胸に抱き続けるのだと思う。この問いだけは変わらずそばにいてくれると思うと心強い。