日記と詩を分ける

國松絵梨さんの作品を読みたくて「ユリイカ」4月号を買った。わたしは詩には全然詳しくないし、自分で作ったこともないけれど、一読して、わたしも何か詩を書いてみたくなった。読み終えて「それじゃあ自分は……」と考え始めたり、「自分も何かを……」と思えたりする作品をいい作品だと思ってきたので、國松さんもそんなようなことを第27回中原中也賞受賞のことばで語っていて、嬉しかった。

それとは別に、受賞のことばで印象に残っている箇所がある。

人は変わりますが、そのときにどのくらい変わったのかを正確に判断することは、ある時点で自分がどのように考えていたのかを覚えていないとできないと思っています。私はわかりたくて、自分に起こった(ている)ことがわかりたくて、そして覚えていたくて、書いています。そうして直面して、苦しんでも把握して、少しずつよくなっていくのでなければ、何のために生きているのかわからないじゃないですか?

これを最初に読んだとき、わたしは日記を書かなくなったことを責められているような気になってしまった。日記を書かなくなってから、心の動きが平坦に落ち着いてこのほうが楽だと思っていたのに…、と思った。わたしは、もともと日記をつけるのが好きで、自分の身に起こったことや考えたことはなるべく書いておきたいし、書き残すべきだと思っているような人間だった。でも、あらゆることが面倒になったら、日記を書くこともやりたくなくなって、放置した。そうしたら、日記を書くときに上がり過ぎたり、下がり過ぎたりしていたテンションの動きがなくなった。少ない振れ幅のなかで落ち着いた日々を過ごしてみて、あまり面白みはないかもしれないけれど、これくらいがちょうどいいのかもしれないと思っていた。自分の時間の流れ方がどろどろと停滞しているように感じられはしたけれど、一日一日を区切って刻みつけたいとはあまり思わなかった。また日記を書くのがすっかり面倒になっていた。

ところが、ちょうど読んでいた、梅棹忠夫『知的生産の技術』に日記についての章があり、わたしにとって大事そうなことが書いてあった。

どういうわけか、日記には心のなかのことをかくものだという、とほうもない迷信が、ひろくゆきわたっているようにおもわれる。[…] 

どうしてこんなことになったのか。ひとつには、日記のことを文学の問題としてかんがえる習慣があるからだろう。じっさい、教科書や出版物などで紹介されている日記というのは、おおむねそのような内面の記録か魂の成長の記録かである。それはそれで意味のあることで、日記文学というものがあることも否定はしないが、すべての日記が文学であるのではない。文学的な日記もあれば、科学的な日記もあり、実務的な日記もある。日記一般を魂の記録だとかんがえるのは、まったくまちがいである。日記というのは、要するに日づけ順の経験の記録のことであって、その経験が内的なものであろうと外的なものであろうと、それは問題ではない。日記に、心のこと、魂のことをかかねばならないという理由は、なにもないのである。

ほんとうにそうだ。わたしは今まで、日記を書くときに自分の内面の動きを強く思い出しては反省したり、希望を抱いたりということをし過ぎて、テンションの波が大きくなっていたのだと思う。

個人にとって、ほんとうに日記をつける意味があるのは、心の問題よりも、むしろこういう部分だと、わたしはかんがえている。その日その日の経験やできごとを、できるだけ客観的に、簡潔に記録しておくのである。もちろん、内的な経験を排除する必要はない。思想も、感情も、客観的に、簡潔に記録できるはずのものである。

 

せっかく、自分の内面を表現する形式としての詩に興味が湧いているのだし、今までの主観的で文学寄りの日記から、詩を切り離してみよう。日記は、梅棹忠夫の言う「心の問題にまったくふれない日記」、「自分自身にむかって提出する毎日の経験報告」を意識して、再開してみようと思う。