海辺の美術館

先週末、神奈川県立近代美術館の葉山館に行った。Twitterを見ていてたまたまアレック・ソス展のことを知り、この写真家の名前をその時に初めて知ったくらいだったのに、なぜか強く行ったほうがいい気がしたのだ。土曜日は、最高気温が28℃の予報で比較的外出しやすそうだし、学芸員の方によるギャラリートークもある、と好条件が重なって、(近年のわたしにしては)遠出を実行することにした。

電車で逗子・葉山駅まで行き、そこからバスに乗る。駅前の停留所に来たバスは、逗子駅から乗せてきた海水浴客ですでにいっぱいだった。一本見送ろうかと思うほどだったけれど、わたしの後ろにもたくさん人が並んでいたので、ぎゅうぎゅうのバスに乗りこむ。途中の停留所で海水浴客たちは降りていき、座れるようになった。席に着いたら、車窓から海が見えた。

美術館の目の前の停留所で降りる。バスはあんなに混んでいたのに、美術館はひと気がなく静かだった。土曜日なら人がたくさん集まっているかと思っていたので、拍子抜けした。

 

初期作品からごく最近に至るまでの5つのシリーズで構成された展示のなかで、もっとも印象に残ったのは〈Broken Manual〉というプロジェクトだった。この作品の展示室だけ、ソス自身によって額と壁の色がグレーに指定されていて没入感があったことに加えて、このプロジェクトの撮影旅行を追ったドキュメンタリー映画が上映されていたこともあって、本作のことを考えていた時間がいちばん長かったと思う。この作品で撮影対象となったのは、社会から隔絶された空間で暮らす人たちだった。社会から引きこもって自分に集中するために設けられた、小説家ジム・ハリスンの執筆小屋にはじまり、人が怖くて森の中に隠れ場所を持つ青年、洞窟のなかで暮らし銃を傍らに置いて眠る人、馬と暮らす人、ドラッグの売人をしていた両親から暴力を受けて育った人……。ソスは車で移動しながら、8×10インチのフィルム用の大きなカメラを担いで、さまざまな隠遁者たちの話を聞いては、彼ら自身の姿や彼らの居住空間を撮っていく。映画を観る限り、行き当たりばったりに進んでいく旅のように見えたけれど、ギャラリートークで聞いた話によると、取材相手はインターネット上でブログなどを通じて見つけていたのだという。現代のやり方だなあと思う。それから、本作の制作時、ソスに長男が生まれて、家にいる時間が増えたことで生まれた逃避願望を掘り下げる内容になっている、という話も聞けた。

わたしは写真に興味は持っているけれど、どういうところに注目して観たらいいのかもわかっていなかったので、ギャラリートークは面白くてメモを取りながら聞いた。たとえば、絵の中に絵がある、画中画というモチーフは初期から一貫しているソスの特徴だという話。

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これは今回の展示の図録の裏表紙を撮った写真だ。初期の〈Sleeping by the Mississippi〉の中の作品で、写真の中に女性が描かれた絵が写っている。写真の中に絵があることで、時間や物語が多層化される。今わたしがなにげなくスマホで撮ったこの写真も、別の層を新たに塗り重ねたことになっているのだろう。さらに、この作品もそうだが、ソスの作品ではアマチュアによる絵が写真に写されることが多いという。絵画教室の作品や、量り売りされていたどこかの誰かの写真をベッドの上で並べた様子を撮った作品もある(こちらは、2種類から選べるようになっていた図録の、もう一方の裏表紙に使われていた)。こういう作家性の話を聞くと、もっといろいろな作品を見てみたくなる。

 

アレック・ソスの展示にはとても満足したし、何よりこの美術館に夏に来られてよかったなと思う。併設のレストランは席数が少なくて、待つことにはなったけれど、空も海も見える美しい景色を眺めながらひとりでハンバーグを食べて、少し泣きそうになった。アイスコーヒーは外のテラスに移動してゆっくり飲んだ。テラスからは海水浴に来た人たちの姿が見えて、はしゃぐ声も聞こえた。食事を終えて、美術館の周りの小さな散歩道へと下りていくと、砂浜をすぐ近くから見下ろせる場所もあった。浮き輪を持っている人がいたり、砂浜で寝そべっている人がいたり、「やきそば」と書かれたのぼりが立っていたり、夏ってこういう感じだったよなあとしみじみしてしまった。

別の展示でもまたこの美術館には来たいし、アレック・ソスがもしまた日本で展覧会をすることがあったら絶対に観に行こうと思う。