散歩が遠ざかる

5日

一日ずっと職場にいるのは気が詰まるから、晴れていれば休憩時間には散歩するようにしている、と同僚が話していて、わたしも働き始めた当初はそうだったことを思い出した。このところはそれどころではなく、休憩時間には休むことだけに専念したい。お弁当を食べたら少し読書をするといった感じで、ずっと座って過ごしている。散歩がいつのまにか、自分の中の休憩に含まれなくなっているのは寂しい。

 

6日

「急だけど、今日空いてたりしない?」と友人から連絡が来た。今日は仕事だと返信すると、同行者が急に来れなくなったイベントに一緒に行かないかという誘いだった。とても楽しそうなコーヒーのイベントだった。残念。でも、急に誘ってもいいと思われていることが嬉しかった。

 

7日

駅から職場に向かう道中、前を歩く同僚を見つけて声をかけた。その人は傘を持っていなかった。家を出る時は雨が降っていなかったから傘を持たずに来たという。今日はこの後ずっと雨ですよ、と言いながら、傘に入れてあげる。

ファン・ジョンウン『ディディの傘』の訳者解説のなかで、著者がつぎのように語っていたと記されていたことを思い出す。

「私にとっての革命基本は、雨が降ってきて傘をさしたときに、隣の人は傘を持っているだろうかと気にかけること」

 

13日

同僚と一緒に帰る。絵を描くことを趣味としているその人の前で、美術館に行くのが好きだとぽろっと言ってしまい、好きな画家を訊かれた。訊かれて気づいたが、こういう質問はなかなかされないし、だから、自分の中に決まった答えが用意されていない。咄嗟に、ヘレン・シャルフベックと答えた。そんなに詳しくないけれど、8年くらい前に上野に観に行った展示が印象的で、去年公開されていた映画を観に行けなかったのが心残りになっている画家。

 

24日

何かを忘れているような気がしつつ退勤。ぼんやりしながら同僚と駅まで一緒に帰っていたら、その人が「あれってそういえばどうしたっけな……」と忘れていたことを必死に思い出そうとしていた。わたしも思い出すべきことがあるような気がする、思い出したいけどそもそも何を……、ともやもやしながら、疲れ切った同僚と並んで言葉少なに電車に揺られた。